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コラム

■「近ごろ気になること」を書きとめました

「食生活」や「健康・医療」に関して、「近ごろ気になったこと」を書きとめました。「健康情報」ページとは異なり、執筆者(最下段に示す)の意見が反映されています。
偽装表示事件で、あえて「消費者の責任」を考える

●偽装の“理由”は誰の目にも明らかだ

 不二家、白い恋人、赤福、船場吉兆、ミスタードーナッツ・・・・と、食品偽造事件がとどまるところを知らない(ミートホープは、違反内容の質が違うので、あえてここに列挙せずにおいた)。

 連日のように、メディアから取材が入り(それにしてもテレビ等のマスコミの取材はもう少し礼儀正しくコンタクトできないモノか・・・・)、「これは氷山の一角でしょうか」と質問される。私は、自分で取材をして証拠をつかんでいるわけではないので、「あくまでも推測でしかないが」と断りを入れはするが「YES」としか答えようがない。

 「法律を守り、消費者の健康を考え、その結果、利益はそこそこついてくる」と考える良心的な人や企業を、私はたくさん知っている。しかし、今の食品業界には「儲けしか考えない人」「法律を真面目に守ろうとはしない人」「法律さえきとんとは知らない人」があまりにも多すぎる。さらには、次々と発覚する「事件」の発端のほとんどが内部告発であるということをが、業界の腐敗度の高さを推測させる。たとえ商品は腐ってなくとも、組織の内部が腐っている。

 マスコミの人たちは、異口同音に「どうしてこんなに続くのでしょうか」と質問するが、その原因が「利潤最優先」にあることは、誰の目にも明らかだ。 ただし、食品を扱っているからといって、その会社が儲けてはいけない理由などない。企業が利益を追求するのは当然である。昨年6月に逮捕されたMファンドの代表が「金儲けはいけないことですか?」と甲高い声を張り上げたが、「儲けてはいけない」などとは誰もいっていない、「儲けかたがいけない」といっているだけだ。食品企業も同じである。

 ほぼ毎日どこかの企業の責任者がテレビカメラに向かってお詫び会見をする。曰く「世間をお騒がせして申し訳ありません」「ご迷惑をおかけしました。二度と起こらないように誠心誠意つとめます」と、深々と頭を下げる。連日のことで見飽きてしまった。もううんざりだ。
 
●偽装した側には弁解の余地はない

 ここで、企業を擁護するつもりは、さらさらない。企業とその責任者には、法的制裁と社会的制裁を受けてもらわなければならない。

 しかし、消費者からの非難を承知で、あえて「消費者には責任はないのか?!」を考えてみたい。食品企業の「儲け主義」を助長する要因に、消費者の意識があることは間違いない、と私は感ずる。

 現代の日本の消費者は「自分では価値がわからない食品」に高い料金を払いすぎる。「価値がわからない、などとは失礼な」と怒る人もいるだろうが、本当にそうだろうか。

 私たちは、廃鶏(卵を産まなくなった鶏卵用の鶏)を薫製したものと、比内地鶏の薫製との区別がつかなかった。にもかかわらず「比内鶏」と書かれていただけで廃鶏にはけっして払わない料金を何の疑いもなく支払っていた。

 また、「その日に作ったものしか売りません」という宣伝文句に魅力を感じて、伊勢のあんころ餅にそれなりの料金を支払っていた。新幹線の車内で“売り切れ”になっていると乗客からクレームがついたそうだ。前日作ったものとの区別、どころか冷凍・解凍したものとの区別さえつかないのに・・・・である。「イヤ、そんな理由(製造日)で選んだのではない。おいしいから買ったのだ」というのであれば、今回の事件で文句をいう筋合いはない(このような「法令を遵守しない」会社は、いずれ食中毒等をおこす可能性が高いから、という理由であれば、当局が指導すればいいのであって、消費者が怒る問題ではない)。

 あのミートホープ事件でさえ、牛肉以外の肉を混ぜ込んだ挽き肉を、消費者のみならず、某生協の仕入れ担当者でさえ牛肉だと思い込み、それなりの(安価な内臓や豚肉にはけっして払わない)金額を支払ったのだ。

 古くは「松阪牛」事件があった。東京の有名百貨店が、松坂産ではない牛肉を「松坂牛」と表示して販売したら、消費者は「とても食品とは思えない」ような料金を支払って購入した。

 日本の消費者は、もっと賢くならなければいけない。これは「食品表示のことを勉強しろ」という意味ではない。わからないものには高い料金を支払わないという、ごく基本的なことを実行すればいい。

 「比内地鶏」と表示するだけで、「牛肉」と表示するだけで、あるいは「有機・無添加」と表示するだけで、中身がわからないのに高い料金を支払う人が大勢いるかぎり、偽装表示はけっして絶えることはない。

●「そこそこ」では我慢できませんか?

 今は主として「賞味期限」の違反が続出しているが、これからは(今までもあったが)他の違反表示がゾクゾクと出てくると推測できる。

 たとえば産地表示。有名ブランドや有名産地をありがたがりすぎれば、ブランド表示違反はなくならない。逆に外国産を正当な理由もなく嫌えば、国産表示違反はなくならない。

 原材料表示。カロリーが低いことをありがたがったり、砂糖や塩分をいたずらに避けたり、遺伝子組み換え農産物を非科学的な理由で毛嫌いしたりすれば、これらを隠す表示がまかり通る。

 添加物表示。無添加をありがたがれば、本来は添加物を必要としない加工食品(たとえば味噌など)にまで「無添加」と表示するようになる。保存料を極端に避けようとすれば、酸化防止剤を使って保存性を高めてあっても「保存料不使用」という表示がされる。

 有機農産物。「有機農産物は安全で農薬を使った農産物は危険」だと思いこむ人が多ければ、有機農産物の生産法や表示の違反はなくならない。

 「鮮度」「生」の崇拝。これだけ冷凍技術が発達していれば、きちんと冷凍され・正しく解凍された食材は、中途半端に「生」で保存された食材よりもおいしいことがある。生保存にこだわりすぎると食材を捨てなければならないケースも増えてくる。加工食品でさえも鮮度や生にこだりわりすぎると、製造日表示違反や期限表示違反はなくならない。

 私たちは、そろそろ、食べ物の「ほどのよさ」を見つけて、それを大事にする時期に来ているのではないだろうか。

 極端に美味しいものが必要なのだろうか? 必要以上の美味しさを識別できる人などほとんどいないのだから、「そこそこ」のおいしさで(リーズナブルな価格が)いいのではないか。

 安全性は「そこそこ」では困るが、完璧な安全性を求めすぎるのもどういうものか。食べ物は、元もとそれほど安全なモノではない。いろいろな工夫をして「安全に食べる」知恵こそが重要である。抵抗力のないお年寄りや小さな子供や病弱な人以外は、食品の安全性に神経質になりすぎることはないのではなかろうか。子供には「食事の前には手洗いを励行する」ことを教えるほうが大事だろう。

 食品を「安全な食品」と「安全ではない食品」に分けることには、私は反対だ。安全な食品(もしそういうモノがあれば、だが)であっても、食べすぎれば健康を害する。過剰摂取すると健康を害するといわれている食品でも、少量を楽しんで食べれば、健康を害することなく食文化を楽しむことができる。大切にしたいのは「量」の概念と「食べ方」だと思う。

 価格も「そこそこ」でなくては困る。過剰な安全性を追求するばかりに、経済的に余裕のある人でなければ入手できないような価格設定になってはいないだろうか(食品は贅沢品ではないのだから、「イイモノでありさえすれば高くてもいい」というわけにはいかない)。

 「ほどのよい」食環境を作ることは、食べ物をムダにしないことにつながる。「過剰な良さ」を追求するばかりに、そこから外れた食べ物を捨てたり、ペットの餌に回したりすることは、そろそろやめるべきではなかろうか。

 「そこそこ」の食環境を容認することができれば、偽装表示に欺かれる人も少なくなると思うのだが・・・・。

(平成19年11月6日 佐藤達夫)