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■「近ごろ気になること」を書きとめました
「食生活」や「健康・医療」に関して、「近ごろ気になったこと」を書きとめました。「健康情報」ページとは異なり、執筆者(最下段に示す)の意見が反映されています。
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“勉強するヒマがない(?)学校”訪問記
食生活ジャーナリストの会の勉強会の一環として、東京都東久留米市にある《自由学園》の取材見学会に参加した。東久留米市は、山手線の池袋駅から私鉄でわずか20分足らずと、都心からきわめて近いところに位置している。西武池袋線ひばりヶ丘駅から徒歩で約10分のところにある自由学園は、主だったところには芝生が植えられ、木々に囲まれた広い敷地に、東京都選定歴史的建造物に指定されている食堂など、個性的な校舎が美しく配置されている。 今回の取材は、同学園が長年取り組んできた「食の学び」教育の成果の一端を見せてもらうという趣旨であった。簡単にご報告したい。
生活者教育としての「食の学び」
全体の印象としては、「国の教育方針に縛られない“自由な教育”の実践の場としての、他校には見られない理念」を感じた。創立者である羽仁吉一・羽仁もと子両氏(いずれも故人)の“建学の思想”が色濃く反映されている。 とりわけ、「食の学び」に関しては、@生活者として、A消費者として、B生産者として、という三者の立場をバランスよく学べることができている。昨今、食育と称して、付け焼き刃の食教育が流行しているが、消費者の立場だけからの視点を強調する偏った知識の詰め込みが多く、聞いていても違和感がある。自由学園の「生活者を重視する」スタンスは貴重だ。 取材当日、食の学び推進委員長を務める小田泰夫氏が、約40分ほど「食の学び」に関する解説を披露した。その話の中に「安全」「安心」という言葉が各一度ずつしか登場しなかったことに、同校の食の学び教育が“地に足がついている”ことを象徴している。 現在、各地の学校で行われている食育の多くに、「安心」「安全」という言葉が羅列されている。この言葉さえ使えば父母が喜ぶとでも思っているかのようだ(事実、喜び・安心する父母も大勢いる)。そういう場面での安心・安全が、必ずしも科学的な根拠に基づく内容ではなく、「農薬は危険」「食品添加物は危険」「自然の食品がいちばん」というような、どちらかといえば思想的な(?)情報提供に偏ることが少なくない。学問の場で、非科学的な「食育」をしている矛盾に気がついてはいないようだ。 自由学園の「食の学び」は、それとは明らかに異なっている。
自分の手で食事を整えることの大切さ
この学園の「食の学び」の神髄は食堂に象徴されている。 文字通り、食堂が学園の中心に建てられているのだ。中心に建てられているだけではなく、女子部の食堂などは、二十世紀を代表する世界的建築家:フランク・ロイド・ライト(米国人・故人)の設計による。建前だけではなく、同校がいかに「食」というものに重きを置いているかを表しているといえよう。 当日、取材グループは2班に分かれ、私が見学したのは男子部。男子部では、男子生徒とその父母が調理をしていた(ちなみに女子部では、父母の協力をえずにすべてを女子生徒が調理を担当する)。 当日の男子部の献立は牛丼。じつは、自由学園取材の一ヶ月ほど前に、比較的教育方針が似ており、食事に力を入れているという他の学園を取材したばかりであった。そこでもやはり昼食を食べた。両学園の食事内容を比べると、栄養バランスや献立としての整い具合は、自由学園よりも他校のほうが明らかに優れていた(たった一日の取材なので「その日に限っては」という条件であり、かつ、自由学園のほうは男子部の牛丼だったので、そのハンデはあったかもしれないが)。 しかし、自分たちの手で食事を整えるという作業を「食の学び」として位置づけている点など、生活者教育としてみると、食事の総合点では自由学園のほうが優れているといえるだろう。 ちかごろ、自らの手で作物を作ることもさせず、調理もさせず、後片付けもさせずに、食前にだけ「作ってくれたかたに感謝し、命をいただくことに感謝して、“いただきます”と手を合わせましょう」などという学校が多い。それが悪いことだとはいわないが、けっして教育的だとは思えない。 自由学園では、自分たちが育てた豚を食べる機会もある。このような実体験のほうが、命の大切さをよほど理解できるだろう。
“不自由(?)な”自由学園
「食」とは直接的には関係がないが、たまたま、訪問した当日は習字の発表の日であった。書道のことは門外漢で、その優劣は、私にはわからない。が、感心したのは、書道の教諭が「これは○○(個人名)の書いたもんだけど、らしさが出てるよな!」といったときに、食堂にいる全員がその○○のことを知っているということだ。少人数教育だから可能だといえばそれまでだが、他校ではあり得ない状況ではなかろうか。 同時に、食後30分にもわたって、習字の発表を全員が興味を持って聞いているということにも驚かされた。食べたあとはかってに遊びたかろうに、ほとんどの生徒が興味深げに聞いている。 ちなみに、自由学園の生徒には「自由になる時間」が少ない。生徒の自主性は尊重するが、携帯電話の使用を厳しく禁止するなど「気ままな自由」はあまりない。 また、植林や農業の体験、毎朝の礼拝、学内の清掃、食事の用意と後片付け、登山、スポーツ活動等々、教室の外で学ぶ時間がきわめて多い。「忙しそうだね」という私の問いかけに、生徒の一人は「勉強しているヒマがないですよ」と笑った。
社会を狭く生きることになる不安
全体として気になったことは、「男女別学」だ。 男女平等というのは、男と女がまったく同じことをするということではなかろう。しかし、性によって基本的な人権等に差があってはならない。男女同権という考え方や男女共学という制度は、日本という社会では長い間しかも強固に、男女差別が行われてきたことを前提にして、それを強く修正しようとするがための手段である。 その弊害も出ているのだろうし、自由学園の創立者である羽仁夫妻の方針もあるだろうから、多くの公立学校と同じにすべきだとは思わない。しかし、異なる方針を掲げて実践するのであれば、それなりの理念を明確に示さなくてはならない。 取材チームの一人の「男女同権や共学についてどのようにお考えか」という質問に対する回答が、「伝統がありますのでなかなか・・・」というような、明確ではない内容であったことは残念である。 非公式な場ではあったが、自由学園のある教諭が、同じ内容の私の問いに対して、「現在の日本社会は男性中心の、男女差のある社会です。それをそのままにしておいて、女性に男性と同じことをしろと教育することが正しいことだとは思えません。社会的に男女差別をなくすことと、男女それぞれの特徴を生かして生活することを、並行して行うことが、今の教育には必要だと思います」と答えた。 時間の余裕がなかったとはいえ、記者団との質疑応答の正式な場で、このような回答があってしかるべきではなかろうか。 もう一点、気なったことは、無遠慮な言葉でいえば「閉鎖性」だ。 生徒たちは、一貫教育や寮生活によって、学生時代を限られた人間関係のかなでのみ過ごすことが多くなりはしないだろうか。 教師も父母も同学園の卒業生が比較的多い。大学に相当する最高学部の学生の多くが同学園の高等科の卒業生だという実態も、社会を狭く生きる人間が育ってしまう可能性につながるのではなかろうか? いろいろな意味で、もう少し他校の生徒と交わる場面が必要であるように感ずる。社会人になってから「世間知らず」というレッテルが貼られるようなことがあっては不幸である。 経済的な問題もあるだろう。必要な学費は「一般の私立学校の真ん中くらい」とのことで、施設のすばらしさや教育内容の充実度に照らし合わせて「意外に安い」と感じた。とはいっても、経済的に貧しい家庭の子供はなかなか入学できない。ということは、学生時代に、経済的に一定レベル以上の友人のみと一緒に過ごすことになる。さまざまな経済状態・事情を抱えた人間と接することは、若人には必要だと信ずるが、いかがなものだろうか。
自由学園では5月24日に「食の学びの発表会」を開催する。参加希望者は事前の申し込みが必要。
(2008/4/23 佐藤達夫)
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